愛と憐れみの奇跡

           イエス様は多くの奇跡を行ないましたが、その内の素晴らしいものの一つは、5000人を食べさせる奇跡でした。パンはたった五つ(いつ)で、魚はたった2匹(2ぴき)しかありませんでしたが、それで大きな群集を食べさせました。私は、この話しを何回も聞いたり読んだりした事がありますので、前よりもこの奇跡に驚きません。私が思うのは、もしイエス様が神様でしたたら、勿論奇跡が出来ます。もしイエス様が毎日世界中の人々を食べさせることの出来る全能の神様でしたら、この奇跡は彼にとって行なう事が簡単です。しかし今も私達を驚かせるのは、どうしてイエス様がその人々を食べさせたかと言う事です。愛の為に食べさせました。イエス様は、その大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみました。人々は、さ迷っていて困っているみたいでした。イエス様は彼らを憐れみました。神様の憐れみこそは聖書の中での一番大きな奇跡だと私は思います。憐れみと愛です。愛は聖書の中では一番大きな奇跡だと私は思います。

           奇跡とは神様の大きな素晴らしい業です。と同時に奇跡は、私達が期待する物ではないので、私達をびっくりさせるものです。会話の中でこのように言うでしょうか。「彼はそのひどい交通事故で死ななかったので奇跡だ。」「宝くじに当たった。奇跡だ!」など。神様の奇跡はいつも私達を驚かせます。毎日の生活の中で奇跡が起こる事を期待しないからです。私達の日常の人生の中で神様が働く事を考えません。てすから、非常に素晴らしい事が起こりますと、それを奇跡と言い、私達キリスト信者達は神様に感謝します。守りと救いと安全を始め、驚くべき恵みと喜びの為に神様に感謝します。

           愛は一番大きな奇跡だと私は思います。神様がこの世界を憎み、滅ぼしたいと思うことは自然な事だと思います。罪と欲張りと暴力の為に、神様はいつかこの世を滅ぼすと約束しました。ですから、神様がこの罪深い憎らしい世を愛する事は驚きです。神様は天使を愛すべきです。罪のない動物、ウサギや羊を愛すれば良いでしょう。それで私は自問自答し、どうして罪深い人間を愛するのでしょかと。そして私自身の事を考えたら、どうして神様が私を愛するのだろうかと思います。この地上には何億の人々がいますので、どうして私の事を大事にするでしょうか。私は偉い人ではないし、聖人ではないので、神様の親切と救いを得る価値がありません。どうして神様は私を愛して祝福する為に、どうして私を選んで下さったでしょうか。それは愛の神秘です、愛の奇跡です。

           海辺でその五千人を食べさせた時、まず、イエス様は弟子達を試しました。彼らの憐れみをテストしました。彼らに群集にたいする憐れみがあったのですが、食べさせる十分な食料がありませんでした。五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。イエス様は弟子達が困っていた事を見ました。弟子達が本当に人々の事に関心を持っているとイエス様は見ました。しかし弟子達は自分達だけの力では出来ないと分かりました。それでパンと魚を増やす奇跡をされました。(X 2 =5000。) 必要な時イエス様は弟子達を助けました。

           イエス様は私達をも試します。ほかの人に対する私達の憐れみをテストします。 私達の愛を試みます。イエス様は弟子達が群衆を食べさせるように命令しました。イエス様は私達にも群集を食べさせるように命令していると私は思います。勿論私達の能力が限られているので出来ません。あなたには、どのぐらいのパンがあるでしょうか。あなたには、どのぐらいの憐みがあるでしょうか。人は、この世の中で飢えています。人は食べ物が必要とします。ある地域には戦争と大きなききんがあります。人は飢えて死にます。難民のキャンプに集まります。しかし、私達は他の国を見なくてもいいです。この島で失業や貧しさの為に、十分食べていない人がいます。私達の冷蔵庫や台所に食べ物でいっぱいであっても、弟子達の二百デナリオンのような沢山のお金があっても、ニーズが大きすぎます。聖書には一デナりオンは一日の賃金です。一日5千円で、200デナリオンは100万円ぐらいになります。しかし、人が多いので、ゼンゼン足りません。5千人に分けましたら、一人は2百円ぐらいです。おにぎり一個ぐらいでしょう。しかし、皆は田舎にいますので、店や食堂が遠いです。主の助けがなければ、皆は何も食べられません。私達は弟子達のフラストレイションを感じます。自分の無力を感じます。憐みにマッチする力や経済力がありません。ですからパンと魚を増やすイエス様の力に頼らなければなりません。パンを裂く前に先ずイエス様は祈りました。私達も先ず先にするのは祈る事です。

           イエス様はその日、群衆を2回も食べさせました。パンと魚を与える前に、神の御言葉によって食べさせました。その日、人々はピクニックの為に出掛けませんでした。イエス様が神の御言葉を語る事を聞きに来ました。御言葉に飢えていました。神の御言葉がないと、彼らは困って羊飼いのいない羊のようにさ迷いました。難民のように難民キャンプに入り込む人たちのようでした。混乱し, 恐れて、お腹が空いていたのですが、希望がありました。難民にはキヤンプの中に安全な場所を見つける希望があります。希望を持って人々はイエス様の所に来ます。より良い生活やより良い人生の為への希望、平和と癒しの為の希望、永遠の命の為の希望、そして、時にはおいしくて暖かい食事の希望をもって教会に来ます。イエス様は神様について多くの事を人々に教えました。神様の愛と憐れみについて話しました。そして私達にその同じ愛と憐れみを他の人に与えるように勧めました。今日もすべての信者達、即ち教会にその同じ働きがあります。

           愛と憐れみは一番大きな奇跡だと私は思います。十字架上のイエス様にその奇跡を見ます。私達の罪を癒す憐れみがありました。その愛があったので、私達に永遠の命を与える為に喜んで死んで下さいました。十字架上でイエス様は「私は渇く」と言われました。もしかしたら、お腹も空いていたでしょう。しかし御自分の死と復活によって、イエス様は私達に霊的な食物を与えて、私達に霊的な力を与えます。この食物とは、神様の御言葉と約束です。私達の罪を赦して下さいます。永遠の命を下さいます。それは神様の愛の奇跡です。

           教会の礼拝に、聖餐式がある時、五千人を食べさせる奇跡を思い出したら良いでしょう。私達もさ迷っている羊のようですが、私達の良い羊飼いは私達を祭壇である聖卓の方に導いて下さって、そこでパンとぶどう酒と共に、御自分の尊い体と血を下さいます。私達はもう迷っていません。もう飢えていません。主は私達を憐れんで下さいました。私達は主の愛を見ます。

           アーメン。         マイケル・ニアフッド、牧師、沖縄ルーテル教会