マタイ1:23、マタイ28:20

 「インマヌエル:我々と共におられる神」

     イエス様は我々と共におられます。いつも、永遠にあなたと私と共にいます。良い時も悪い時もです。目で見えなくても、私達の心の中にいます。そして、見なくても、本当に彼の臨在を本当に感じる時があります。例えば、喜ぶ時や礼拝する時、イエス様が私達と共に歌ったり祈ったりしているみたいです。危ない時、力と守りを与えて、交通事故にほんの少しであわない時、「主イエス様、ありがとう。アーメン。」と言います。寂い時や悲しい時、イエス様が共に、そばにいると分かるので、大きな慰めと希望が与えられています。自分が罪を犯していると分かる時、してはいけない事をする時、自分がイエス様に見られていると感じる時があります。どうしてそれが良いかと言いますと、そのような誘惑の時、イエス様は私達の弱さが分かるからです。イエス様は誘惑が何であるか分かります。荒野の40日間の後に、石が美味しいパンのように見えると分かります。「十字架から降りて来い」と侮辱された時、苦しみを止めるように誘惑されました。イエス様ご自身は誘惑の時忍びましたが、私達の誘惑を理解します。それで、祈りを教えました:「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。」神の赦しを疑う時の悪よりもです。罪の宣告、罪の赦し、律法と福音です。イエス様は私達と共にいます。あなたと私と皆と共にいます。

      昇天される時、イエス様はこの約束を弟子にも私達にも言われました。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」しかし、世の最初の時から神様はいつも私達と共にいました。創世記3:8の箇所が好きです。そこで、「風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く]と。後で、イサクの誕生を教える為にアブラハムのテントを訪ねます。シナイ山の上でモーセと共にいました。昼で雲、夜で火の柱によって荒れ野を旅するイスラエル人と共にいました。そして、詩篇46編2,12節で、ダビデは歌います:(詩篇46:2,12)。

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。…

万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」

      そして、イエス・キリストによって、特別な方法で、神様は私達と共にいます。人間と共にいる為に人間の形を取ります。伝道活動の時、病気の人や貧乏の人と共にいましたし、社会的に捨てられた人や金持ちと共にいましたし、罪人や正しい人と共にいました。病気の人を癒します。死人を甦らせます。おなかが空いている人を食べさせます。嵐の海の時、弟子達と共にいました。十字架上の時、御自分の上に世の罪を取りました。私達の罪が彼と共にありました。何故ならば、彼が私達の罪と共にいるからです:それは、それを赦す為でした。十字架上で死ぬ時、私達が死ぬ時に私達と共にいます。彼の復活によって、私達は彼の新しい命と共にいます。

     この説教で、もう既に「イエス様が私達と共にいる」と何回話したか数えませんでしたが、何回も繰り返さなければなりません。何故ならば、私達の罪深い魂がそれを疑うからです。どうして聖なる神様が僕のような駄目な罪人と共にいるべきでしょうか。私の祈りを聞いて助けるでしょうか。僕だけではなくて、私達と共にいるでしょうか、家族として、教会として、教団として、国として、すべての人間や地上のすべての生き物として聞きます。それで、世界のすべての悪と失望と病気と災いがあるので、何回も何回も確信を与えるイエス様の言葉を再び聞く必要があります。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」ダビデとマルチン・ルターと一緒に歌い続きます。(詩篇46:1,11)。力なる神。

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。…

万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」

      マタイによる福音書の一つのテーマは、イエス様による神の臨在です。生まれる時から昇天までです。十字架上にいる時でさえ、神の存在しない恐ろしさがイエス様の言葉にあります。「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか」と。イエス様の降誕がこのように預言されました、「1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」

      ここで、2つのポイントを話したいと思います。一つ目は、イエス様は神である事です。イエス様の父はヨセフではなくて、本当の父は神です。マタイ1:20から読みます。「read 1:20-23、このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」ですから、イエス様が神であるので、私達皆と共に、どこでも、いつでも、どの時代の人でも、いつも、永遠です。

     2つ目のポイントとは、イエス様には、2つの名前が名づけられました。“イエス”と“インマヌエル”です。“イエス”と言う名前は、旧約聖書の“ヨシュア”と同じでしょう。その意味とは、“神は救い”又は、

“救いの神”です。イエス様は私達の救い、私達の救い主、私達の罪から私達を救います。イエス様は私達を救う神です。それは彼の働きです、彼の性格です。ヨハネ3:17が教えるように、世を愛する神は、怒りをもって世を滅ぼす為に来ませんでした。世を救う神として来られて、罪から救い出す為に来られました。どのようにそれをするでしょうか。それは、彼の2つ目の名前によって表されました。“インマヌエル。”

     “インマヌエル”と言う名前は先ず、旧約聖書にでます。イザヤ7:14では、王様の宮殿で生まれる男の子の名前です。一日中、お母さんは彼の名前を言う時、その名前を聞く人は皆が主なる神はイスラエルを見捨てなかった事を思い起こされます。「神は我々と共におられる。」「神は我々と共におられる。」「神は我々と共におられる。」イエス様の場合には、神の救いのご計画を教えます。人間である私達と共になる為に人間として生まれる事です。そして、福音を教える為に私達と共に生きます。そして、犠牲として私達と共に死にます。そして3日目にも、世の最後の日にも、復活によって私達と共にいます。

     “インマヌエル”は名前です。文字通りは、“共にー我々―神、”その順番です。ヘブライ語やギリシャ語やラテン語にも、be 動詞がありません。彼は“供なる神”です。それは名前で、説明ではありません。良い名前です。イエス様は留守の神ではいません。昇天の時、天国に行って、父の右の手に座って、何もしない者ではいません。世の最後に、世に戻ってきて私達を復活させる時まで、私達と共にいます。私達の人生の中で活動します。

      今日の昇天主日で、それをお祝いします。イエス様は言われました、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

    アーメン。

                                                                                                         マイケル・ニアフッド、牧師

                                                                                                                  沖縄ルーテル教会