5.9 私達はイエス様の友達
福音書 ヨハネ 15: 9~17 (新198)15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの吊によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。《 |
イエス様の言葉を理解する方法の一つは、その言葉の逆を見る事です。この罪深い世はそのように理解するからです。もしイエス様が山上の説教の反対の言葉を言われましたら、イエス様はなんと人気者になるでしょうか。この世は、自分のものとしてイエス様を迎え入れるでしょう!
例えば、ヨハネ3:16が言います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《では、その逆を考えます。“神は世を憎んだので、世を裁いて宣告して滅ぼす為に御子をつかわしました。”多くの人は、神様が怒りの神であると思います。罪人は今も永遠に滅びると思います。イエス様は次ように言われました、「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。《しかし、怒っているイエス様はこのように言われるでしょう、“父があなたを憎んだように、私もあなたを憎む。《と。
イエス様はこのように言われました、「12私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。《しかし、世は反対にします。互いに愛し合うよりも、互いに憎んだので、互いに憎み合います。黄金律の反対です。自分自身を愛するほど、隣人を憎む事です。
友の為に自分の命を捨てるか。決してしない。私の為にしないからです。仕返しする?もちろん。恨みを抱く?永遠に。赦す?けっして。冗談ではありません。
人間はこのような宗教によって生きるみたいです。もしイエス様はこのように説教したら、十字架につけないでしょう。十字架に上げるよりも、台に上げて、本当の金(きん)で出来た冠をかぶせるでしょう。
イエス様はこの世の罪深いやり方を認めませんでしたので、この世は彼を認めませんでしたし、今も認めません。何故ならば、彼のメッセージは、この罪深い世の知恵の反対だったからです。山上の説教の教えは今日の福音書の日課にこのように表わされました。「12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。《どのようにイエス様が私達を愛して下さったでしょうか。私達の為に命を捨てたからです。私達の為に、私の為、あなたの為、御自分の友の為、私達の友達の為、愛する世界の為です。それはイエス様の愛の計りです。即ち、私達の為に死んだ事です。私達がご自分の友であるので、命を捨てました。
旧約聖書の中ではアブラハムだけが「神の友《と呼ばれています。イザヤ書41:8。又、ヤコブ2:23「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。《ですから、新約聖書の中の『友』の使い方が大切であると思います。救いに制限がありません。あなたは誰でもの友達になる事が出来ます。友情、即ち救いがイスラエルの国だけに制限されていません。あなたはユダヤ人になる必要がありません。自分の家族の人ではない人の友達になる事が出来ます。又、新約聖書が『友』と言う言葉を使う事が大事であるもう一つの大切な理由とは、『愛』は何であるか理解しにくいからです。しかし、すべての人は友達になる事の意味が分かります。必要な時、友達がそばにいます。必要な時、イエス様は私達のそばにいます。友達と同じように、イエス様は私達を助けます。
自分の友達が馬鹿な事や恥ずかしい事をしたら、忠実な親友でいる事が難しくなります。しかし、私達が馬鹿な罪人でしても、イエス様はいつまでも忠実な友達です。
二つの箇所にコメントしたいと思います。先ず11節です。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。《愛情と友情とは、この世の中のもっとも大切なものの二つです。それで喜びのもっとも大きい源です。それで、イエス様が私達の友達であると分かる時、私達の信仰を湧きあがらせる聖霊の働きを感じます。又、私達の喜びを湧きあがらせる聖霊の働きを感じます。
二つ目の好きな箇所は16節です。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の吊によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。《先ず、イエス様は私を選んだ事です。別の宗派が強調しますが、私はイエス様に従うように決心しませんでした。それで、私にはストレスがありません。私の約束ではなくて、洗礼を受けた時の三位一体神様の約束です。私はイエス様を選ぶ必要がありません。かえって、自分がイエス様を信じている事を悟ります。そしてこの信仰を与えてくださった主なる神様に感謝します。自分の心の中での聖霊の働きを見ます。この節について、もう一つの事を言いたいと思います。私達は確信を持って祈る事がイエス様の意思です。何の為に祈りましょうか。どの実を結びましょうか。このように祈りましょう。即ち、私達の友達もイエス様の友達になりますように。
最後に、今日は母の日です。母の愛はイエス様の愛と同じでしょうか。お母さんは、愛する方法をイエス様から習うでしょうか。子供達の為に自分の命を捨てる事、どのように友達になる事、祈り方、自分の家族を喜びに満たさせる方法です。そして、子供達は、お母さんから同じ愛する方法を学びます。それは、親を敬う(うやま)素晴らしい方法ですし、イエス様の愛を習う良い方法です。
アーメン。