5.2 キリストに結ばれている:「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
ぶどうの木とその枝という例えは、私達のイエス様との関係とそのつながりをよく現します。私達は直接にイエス様とつながっています。そこから栄養をいただきます。その栄養は私達を救い、清く聖なるものとし、霊的な成長とその人生の為です。信仰によって直接につながっているので、キリストとの完全な愛と恵みと憐れみをいただきます。
もし私達が直接、イエス様につながれていなければ実を結びません。春の季節に木から枝を切り取ったら、秋になりますと実を結びません。私達の霊的な人生も同じです。その実とは愛です。その実、キリスト信者の人生の収穫とは愛です。私達の人生の目的とは愛です。キリストにつながれ続けましたら、彼の愛が私達の内にあり、私達の人生の中で愛を結びます。私達が弟子として生きるのです。この愛が私達を救う訳ではありません。なぜなら私達が良い行いによって救われていないからです。しかし、私達の人生の中の愛とは、私達がイエス様とつながれている証拠になります。もし私達には愛がなければ、他の人は私達がキリスト信者である事を信じられません。同じように、ある木がりんごの木であると分かるのは、その木がりんごを結ぶからです。ぶどうの木のぶどうやりんごの木のりんごは、その木の目的です。実がなければ、その木は農夫にとっては役に立ちません。実を結ばない枝は無駄で切り離されています。私達の人生の目的は愛です。愛の実がない人生には価値がありません。
子供の時代、私はお父さんの庭の手入れを手伝いました。りんごの木がありました。春先に、お父さんは大きい枝に直接つながれていない小さい枝を切ってしまいました。その枝がりんごを結ぶ事が出来ないからです。切られた枝が地面に落ちます。僕の仕事とは、落ちた枝を集めて一つの所に置きます。それでお父さんはそれを燃やしました。灰をコンポストに入れました。イエス様は言われました、「15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」これは例えです。聖書の中のほかの例えで分かるのは、その火に投げ入れることは地獄です。神様から離れた状態とは滅(ほろ)びです。神様から離れたら命がありません、イエス・キリストから離れた実は神様にふさわしくありません。
イエス様は言われました、15:1 「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と。神様は御自分の畑を愛して、それを大事にします。その畑、そのぶどうの木とすべての木、御自分の動物も、私達もそうです。枯れている、切って捨てられた枝をも愛します。それで、神様は御自分の御子イエス様をこの愛する世に送りました。集めて燃やす為にではなくて、集めて、癒して、生かす為です。そして、イエス様が私達と同じようになる為に赤ちゃんとして産まれたように、今度、十字架上で、枯れている死んだ枝である私達と同じようになりました。御自分の上に世の罪を持って、選定され、切り捨てられました。そして、十字架上でその苦しみを感じて叫びました、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と。そして、その死と復活によって、私達を集めました。燃やして破壊する為にではなくて、赦す為に、活かす為に、実を結ぶ為に私達を集めました。
私達がキリストを信じる時、私達がそのぶどうの木につながれています。これによってキリストが私達にご自分の愛を下さいます。その愛とは、先ず先に、赦しです。この赦しは私達のすべての罪より強いです。キリストにつながれる事とは、この赦しを知る事です。私達が罪を犯し続けても、自分に価値がないと感じても、神様の恵みが私達の罪より強いです。神様の偉大なる恵みは偉大なる赦しであるので、切り捨てるべき私達を見捨てません。何故ならば、私達に対して希望を持っているからです。それは愛です。愛はそのような事をするのです。
愛には多くの形と表現があります。今日の福音書のイメージを借りて、愛は他の人とつながれている事です。ですから、親切と関心と赦しと会話と助けとチャリティがあります。それで、自分の実を他の人と分かち合いたくない、自己中心な自分をのり越えられます。この愛は、他の人を切り捨てたくないで、更に、落とした者を拾って復興したいと思います。
それで、私達のクリスチャンとしての活き方、又、この世の中に生きている人間の活き方には、イエス・キリストの言葉には、力と目的と祝福があります。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
アーメン。