2024.10.27 キリストによる自由  ヨハネ 8:31~36 (新182)

 

 ローマ3:19~28 (新277)

3:19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

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 ヨハネ 8:31~36 (新182)

8:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

もう一度、今日の短い福音書の日課を読みましょう。ヨハネ8:31-36。

イエス様は言われました、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 きょう、4つの事について話しましょう。1 イエス様の言葉の意味、 2 どのようにユダヤ人たちはイエス様を誤解したか、3 どのように私達もイエス様を誤解するか、そして 4 どのようにイエス様の真理が私達を自由にするかです。

先ず、イエス様は政治上や社会的な自由に付いて話しません。この地上に王国を建て、ローマの支配からイスラエルを自由にする為に来られませんでした。言われました、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」イエス様は私達を罪の奴隷状態から救い出して自由にします。それは、十字架上のイエス様の働きです。その時、私達の罪を赦す為に犠牲として死んで下さった時です。イエス様を自分の救い主として信じる時、イエス様はどなたであるかの真理を知ります。その時、彼の弟子になり、福音の真理の言葉に留まります。その時、自由になります。信仰はその真理を知ります、即ち、私達が信仰によって救われている事です。ローマ人への手紙3章で、聖パウロは、福音の真理をこのように説明しました。「21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22すなわち、イエス・キリストを信じる事により、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」聖パウロは大きくて難しい言葉を書きました。“神の義、贖い、義、恵み、罪を償う供え物”です。私達にとって、その言葉の意味を掴むことが難しいです。ユダヤ人達の為にも難しかったです。

2つ目に。ユダヤ人達はイエス様の言葉を誤解しました。彼らは政治上や社会的な自由を考えました。言いました。「私達はアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になった事はありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と。 イスラエルの国が父アブラハムの子孫のように考えました。それは正しいです。 しかし、忘れたのは、400年間のエジプトでの奴隷状態の時や70年間のバビロニアでの時です。忘れたのは、彼らの時代こそがローマの支配の下にある事です。個人的に言いましたら、誰の奴隷でなくても、ユダヤの国がローマから自由ではありませんでした。イエス様が説明したのは、彼らは罪の奴隷である事です。そして、奴隷は自ら自分を自由にする事が出来ない事です。自由にさせるのは、アブラハムの子、ダビデの子、神の子だけです。聖パウロは書きましたのは、彼らは神の律法の下にある奴隷です。 ローマ3章にこのように書きました:「3:19さて、私達が知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 20なぜなら、律法を実行する事によっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生shouじないのです。」 律法は、人に自分の罪を表します、一つの鏡のようです。

3つ目に。私達もイエス様の言葉を誤解します。鏡の中に見る者を憎みます。それで、神の律法の鏡を無視します。それで、自分が罪の奴隷である事を理解しないか、又、自分が自由になったので自由に罪を犯してもいいと思います。 # 一方では、十戒の奴隷になって、神の哀れみと恵みと救いを得る為に良い人にならなければならないと思います。自分の人生を犠牲として神様に捧げなければならないと思います。自分の人生は、罪を贖う供え物になります。聖パウロの言葉を借りて逆にしますと、十字架上のキリストの代わりに、自分の働き、自分の汗と血と涙で、自分自身を罪を償う供え物として神様に捧げます。神様に喜ばしい者としようと思います。 # 他方では、これがルーテル教会の誘惑ですが、自分が自由であると思って、好きな事を何でもしても良いと思います。私達は福音の真理を知っています。知って告白するのは:私達の罪を赦す為にイエス様が十字架上で死んで、永遠の命を与える為に3日めに復活した事です。イエス様は言われました、「真理はあなたたちを自由にする」と。イエス様は私達の以前に犯した罪を赦して下さったと分かります。私達の今犯す罪も将来犯す罪も赦して下さると分かりますので、心配なしに罪を犯しても良いと思います。でも、実は、悪い事をする時、心が痛いと思います。何故ならば、キリストとの約束を破ったと思うからです。その約束とは、神をも隣人をも愛する事です。しかし、古い癖kuseを変える事は難しいです。罪から自由になる事が難しいです。

最後に4つ目に。どのようにして、イエス様の真理が私達を自由にするでしょうか。言われました、「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 第一の短い答えとは、信仰です。信仰を持って私達はイエス様の弟子になります。第二の短い答えとは、恵みです。“恵み”とは、神様が私達を救いたいと思う事です。 彼の無償の贈り物とは、彼の哀れみと愛です。第三の短い答えとは、キリストです。キリストは、ご自分の意志で、私達の僕になる為に、ご自分の自由を捨てました。ゲツセマネの園で言われました、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」十字架上で、自由がありませんでした。ご自分の上に世の罪がありました。ご自分の復活は、私達が罪と死から自由になると言う証拠shoukoです。そして、第四の短い答えとは、聖書です。何故ならば、聖書の中に、私達の主イエス・キリストに付いての真理を見つけるからです。即ち、主の愛、哀れみ、恵みと救いです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会

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